かなしいBeing
「お兄ちゃん、まだなの?まだ国境は見えないの?」
しばらく黙って後をついてきていた妹が、とうとう痺れを切らしたように言った。
「まだだよ。周りを見てみな、まだ町の風景が続いてるだろ?この国を出るには、まず外門を越えて、そこからまた草原を抜けなきゃいけない。やっと半分を過ぎたところなのに、こんなところで弱音なんか吐くな」
「でも朝からずっと歩きっぱなしだよ?だんだん暗くなってきたし、人も全然いないじゃない。きっと、あいつらも疲れて私たちを追うのを止めちゃったんだよ。ねぇ、ちょっとだけ休もうよ」
縋るように見つめてくる彼女にオレの決心は少し揺らいだが、それでもオレは首を横に振った。
「駄目だ。おまえはあいつらの本当の恐ろしさをわかってないんだよ。やつらの牙は狼よりずっと鋭い。捕まったらおまえなんかひとたまりもないぞ。別れた仲間たちとも二度と会えなくなっちゃうんだからな」
「ヤ、ヤダ!ヤダヤダヤダ!絶対またみんなと一緒に暮らすんだもん!約束したんだもん!」
「じゃあ、もう少し頑張れ」
「・・・わかった。わたし、がんばるよ」
仲間の集団からオレたちが離れてから、ずいぶんと時間が経っていた。
しかしこの劣悪な状況下で、大勢居た仲間のうち、何人がまだ生きてこの世にいるのだろう。
迫り来る魔の手に引き裂かれる彼らを想像すると、オレの背中にまた冷たい戦慄が走った
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「どうしてあの人たちは、こんな風に私たちのこといじめるの?」
素朴な疑問だった。しかしその答えはオレにもわからない。
忘れもしない、3日前のあの日。
突然「あいつら」はオレたちの住処に現れ、そしてその「牙」で次々に仲間たちを惨殺していった。
飛び散る鮮血を浴び、錯綜する悲鳴に恐怖しながら、オレと妹はただひたすらに逃げた。
後ろを振り返り仲間を気遣う余裕なんて、とてもじゃないがなかった。
彼らとは、そこで別れたっきりだ。
しかしそのおかげでこの幼い妹にあの地獄の惨状を見せずにすんだのだが、これを不幸中の幸いと呼ぶには前者が重すぎるだろう。
血の海に光る尖った金属。
それを手に嗤う多くの顔。
思い出すだけで吐き気がする。
何故、だなんて聞くだけ無駄だった。
弱者と強者の関係は明らかすぎるほど明らかだからだ。
オレと妹が泣いて許しを請うたところで、やつらの殺意の対象が変わるとは到底思えない。
ならば、逃げるだけ。
やつらの手の届かない他の国へ。生き残るためには単純にそれしかなかった。
「あいつらは頭がおかしいんだよ。そんなやつらに何を言っても無駄だろ?そんなことより、これからの事を考えよう。ほら、見えるか。この角を曲がるとスラム街だ。昔おまえも行ったことあるはずだよ。『人がいっぱいいて迷路みたいだー』ってはしゃいでたじゃないか」
「あ、本当だ!」
思わず駆け出す妹の後姿を見て、オレは自然と目を細めた。
この国から、一歩抜け出すだけでいい。それだけでオレたちはこの突き刺さる恐怖から解き放たれる。
さすがのやつらも国境線を越えてまでは追ってこないだろう。
そこまで行けば、妹は幸せに暮らすことができる。飢えることもなく、寒さに震えることもなく、幸せに・・・・
先に妹が走っていったので、オレはその後に続いて細い路地を出た。
そして眼前に広がる光景に、絶望した。
拓けた場所にたたずむ妹を、いくつもの鋭い目が捉えていた。
光るものの切っ先が彼女に向けられ、その瞬間、爆音とともに妹を切り裂く。
彼女の小さな身体が踊るように回転し、その周りを赤い飛沫が彩った。
「 !!!」
必死に妹の名を叫んだが、声がでなかった。そして気付く。
ああ、オレたちに名前なんて無かったか。
黒く乾いた空からは、ポツポツと雨が降り始めていた。
どしゃり、と音をたてて妹の身体が地に叩きつけられると、その場のタイルが血に染まった。
ちょうど妹の顔がこちらに向くような格好になり、オレの位置から彼女の苦しげな表情が手にとるようにわかる。
「お兄ちゃ・・・」
小刻みに震える身体を横たえた妹は、声を出さずに、でも確かに
「逃げて」
そう呟いた。
その背景にやつらが歓声を上げながら近づいてくるのが見える。
必死に声を出そうとしたが、喉の奥に何かが詰まったように息ができない。
ヤメロ
カノジョニサワルナ。
チカヨルナ。
「・・・あ」
「お兄ちゃん、逃げて!」
妹の悲痛な叫びを聞いて、オレは弾かれるようにしてその場から逃げ出した。
オレの存在に気付いたやつらの仲間が、オレに標準をあわせ次々に光るものを放つ。
しかしオレには決して当たらない。
まるで何かに守られているかのように。
オレは逃げた。後ろを振り返ることは、できなかった。
「逃げて・・・」
気がつくと硬いレンガの屋根の元で、オレは一人ぼうぜんと立ち尽くしていた。
何があったのか、どのようになったのか、全く把握できていなかった。
ただ一つだけはっきりしているのは、もう隣に誰もいないこと。
唯一の兄妹を失ったこと。
もう二度と、あの笑顔に会えないという事実。
あいつらが最初に姿を現す前の晩。その夜はこの季節にしてはずいぶんと冷え込んでいて、オレと妹は寄り添うようにして眠っていた。
しかしオレがふと目を覚ますと、そこには不安げに宙を見上げる妹の姿があった。
「眠れないのか?」
「・・・お兄ちゃん」
オレの質問には答えずに、妹は夜空を見上げたままつぶやいた。
「私、なんのために生きているんだろう」
そんな質問をされるとは思っていなかったオレは、とっさに
「幸せに、なるためだよ」
そう答えた。
そう思っていた。
彼女は幸せになるべくして生まれてきたに違いないのだ。
「そう、かな」
「そうさ。辛いのは今だけ。きっとすぐに昔みたいに楽しい時が戻ってくる。だから諦めるな。オレが、お兄ちゃんがきっと」
『幸せにしてやるから。』
それこそがオレの存在理由。そうだと信じていたのに。
もう、そんな誓いは意味をなさない。
「オレの、大切な存在理由はもういない。もう戻らない。一人で逃げた所でなんになるっていうんだ・・・」
オレは、なんのために生きている?
「いたぞ!あそこだ!」
その体格に似合った野太い声を張り上げて、男は彼を指差した。
先程見かけた彼に違いない、私はそう思った。
雨の雫を弾いて輝く毛並み、スラリとした美しい体のライン。
彼は軽い身のこなしで屋根から飛び降り、身をかがめて私達を威嚇した。
戻ってきたのか。一体何のために?
「今度こそ逃がすなよ?ヤツに生きていてもらっては困る」
隊長がポンと私の肩をたたいた。私はそれを払いのけるようにして前へ出た。
水を含んだ隊服が、やけに重たく感ぜられた。
『パン』
乾いた銃剣の音が鳴り、彼はその場に倒れこんだ。
皮肉にも、そこは彼の連れが命を散らした場所とまったく同じだった。
「とどめは、お前がさせ」
背後から無慈悲な言葉が投げかけられる。
私は人ごみをかき分け、ゆっくりと彼の元に近寄る。
このためだけに集められたごろつき達は、すでに勝利を確信たように雄たけびを上げていた。
にゃあ。
彼は私を見て、小さく弱弱しく鳴いた。
美しいはずの彼の漆黒の毛並みは灰を含んだ雨に汚され、流れ出る鮮血がべたつく感触を物語っている。
こちらに向けられる真摯な瞳に気付き、私は思わず目を背けた。
「ごめんよ」
誰にも気付かれないように、小さく呟く。
「ごめんよ。本当はこんなことしたくないんだ。でも、時代の流れには逆らえない。今の私にはどうすることもできないんだよ」
私はそう言って、腰にさしてあった剣を抜いた。
「でも、待っていて欲しい。この世の中は必ず私が変えてみせる。奪い取られた君たちの尊い命に、すべての人が祈りを奉げるように」
彼の首元に剣の切っ先を当て、頭上に高く振り上げる。
「君と彼女に、神のご加護があらんことを」
『約束、したからな』
・・・え?
聞き間違いかと思ったが、もう確かめることはできなかった。
だって仕方ないじゃないか。もうオレには守るものなんて残っちゃいない。
オレのかわいい妹。ごめんな。せっかく、逃げろって言ってくれたのに。
でもオレの幸せは、お前と一緒じゃなきゃ意味がないから。
だから、みんなの代わりに伝えることにしたんだ。
オレたちがここに居たということを。ここに存在したというとこを。
つらい、思いをしたことを。
あんたならわかってくれるだろう。強くまっすぐな瞳をしたあんたなら。
オレも妹も、この世界で精一杯生きた。一生懸命生きた。
次は、あんたが頑張る番だよ。
今できるオレの存在理由。それはこのことをあんたに伝えること。
続かないように。繰り返さないように。
仕方ないから、そう思うことにするよ。
まぁ、せいぜい頑張ってくれな。
人間さん・・・
この物語は、13世紀ヨーロッパのカトリック教徒による宗教弾圧の際、猫が魔女裁判の道連れに虐待・惨殺された史実を元にしています。